信長の鉄甲船阿武丸 狭山造船所京橋船台
信長の鉄甲船 を設計する
信長の鉄甲船 は全長 40 mの伊
勢船とすると、総矢倉は 2 層とし
たい。第1次木津川戦で信長軍は
火矢、焙烙で焼かれている。
焙烙を投げ入れられない高さにす
るためで、その総矢倉は、火よけ
に鉄板で包む。防火耐火に万全を期すは『信長公記』に書かれている通り。そして、全面に鉄砲狭間を穿ち、3 門の砲は、2 層の舳側に2 門、艫側に1 門を設置して、側面と前、後方に砲窓を開ける。 とこれ、全船 針ねずみの様相を呈し、防御、攻撃に完璧な状態になる。
ところで、全長 40mの鉄装甲の安宅船ともなれば、自重は 250トン以上にもなり、最大排水量は500トンを超える。 軍船の木割術によると櫓の間隔は1人漕ぎの小櫓で8.7~8.8寸、50 数 cmである。
これが2人漕ぎの大櫓ならばその1.6倍の約 80数 cm位になる。(木割術の規則で、寸度は倍数となる。いずれにせよ随分と狭いものだ。) 櫓台を全長の 80%とすると、小櫓で 110挺立て、大櫓では 80 挺足らずとなるが、これを馬力荷重でみると前者で 4.5トン/人 、後者では 3.1トン/人となり、随分と過大となる。もはや、大櫓以外の選択はない。
いずれにしても、とても漕いで機敏に動くものではない。だから、この船は能動的に攻撃を仕掛けたり、追撃戦に運用することは困難で、まして、敵を振りきるような 殿軍戦にはまず無理、木津川河口のような限られた戦域で、浮き砲台か、トーチカ的な防御専一の用兵でしかない。
思えば、信長は先の淺井 攻めで琵琶湖に大船を浮かべた。だから今回の木津川封鎖作戦にそのような大船の強み、弱みを熟知した上で、この大船を建造させたものである。以後この船の活躍場面の記述はない。この地、この時のみ限定の新兵器であった。
『境流伊勢船陣船図』
東京大学駒場図書館所蔵
1、
2、
3、
4、
5、
6、
さて、シルエットの決まったところで、細部を箇条にすると、
布帆を装備する。本帆と弥帆で、本帆柱を起倒式にするは言うまでもないが、なにもその度に、2 層のその上の最上層まで重い帆柱をあげる要もない。 2 層の総矢倉の中身はほぼ がらんどうで、側壁の狭間に武者走りがあればよく、充分な広さがあるから、其の中をマストの起倒作業と格納の場所に活用する。頂部は舵軸と干渉するので、格納は中心線を外す工夫をする。
舳には中心線に 2 層の物見矢倉をあげ、艫には 1 層の矢倉をあげるが、艫は、艫車立:舵軸の保持材の位置であり、帆柱を起倒するスペースであるため 中心線には配さず、舷側上に置き、武器庫兼防御施設にする。なお、操舵手、舵柄は矢倉の上、屋上に配する。
矢倉内の密閉空間での操舵は、困難と考えたからだ。
弱点は船尾の開口部で、敵の狙い目も舵であろうから、ここははね上げ式の閉鎖構造として、鉄砲狭間を設ける。船尾の遮浪整流装置の構造はあまりよく判らないが、ここでは一般的な外艫とした。
屋上、最上甲板側壁は立ち撃ちの高さにし、膝撃ちの高さの狭間を開ける。
鉄装甲は総矢倉に施し、一応、船体には張らないこととした。
大櫓の漕ぎ方や構造が、勉強不足で不明であるので、この度は1本の櫓を左右の向かい合わせで漕ぐものと想定した。
阿 武 丸 の 装 甲
鉄の装甲であるから当時、その鉄材の調達と、そのような重量物を船の上部構造に貼り付けて、はたして安定性、復原性に問題が無いのかとの疑問は当然でる。はてはその実在さえ疑われていたりする。
安宅船の一般的な装甲は、2~3寸:6~9cmの木板と言う、存外薄いものだ。
当時の鉄砲の貫通力から、それ位で有効であったらしい。
ならばその上に張る鉄板なら数mmの厚さで宜しかろう。仮に0.15寸:4.5mmとすると図のように462.8 ㎡ 約 16 tonになる。この値を和船に使用される鉄材 ― 復元菱垣廻船「浪華丸」の釘、鎹ほか合計で 2万本 約 3.5ton『復元された菱垣廻船「浪華丸」』 と比較して、調達の限度を超えるとは考えられない。また同様にこの重量が排水量 657 tonの船に致命的な復原性低下になるとは考えにくい。
鉄板 1 ㎡の重さ
100×100×0.45×7.86
(比重)
≒35,000 g / ㎡
(36+8.5)×5.2×2=462.8 ㎡
35×462.8≒16,000 Kg
阿 武 丸 の 要 目
全長が 40mとすると、矢倉の最大幅はその約 3分の1 程度で 14m、船体の幅は11mと、大体のところは収まりの良い値となった。排水量は最大で、実の戦闘にはこれまでも載せることは無い。計算は全て排水量 500 tonで計算してある。同様に 2400石積とは載荷重量 360 tonに相当するが、輸送船でないのでこれも単なる比較 呼び方に過ぎない。
軍船としては、大櫓 ( 2人漕ぎの櫓 ) 78挺立ての、大安宅船と言うべきだろう。
水手 156人 兵 200 人というところか。
船名は阿武丸(あたけまる)とした。安宅船であるからの単純な発想である。安宅丸ともできるが、同じ船名が他にあるので、阿武とした。