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信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 阿武丸、石山合戦における水上船、木津川口の戦いで毛利水軍を撃退。

 鉄甲船とは、信長と石山本願寺との対決 石山合戦で、石山本願寺に糧武器の補給に来援した毛利水軍を撃退した九鬼水軍の鉄板張超大型安宅船である。第1次木津川口の戦いで九鬼水軍は、毛利水軍に焙火矢を撃ちかけられ、炎上敗退したが、第2次木津川口の戦いには、新造の鉄甲船6隻を投入、これは火炎攻撃にはびくともせず、見事勝利した。この一文は、帆船模型工房 狭山造船所 京橋船台で、この鉄甲船の復元模型、阿武丸(あたけまる)を建造したその物語である。

信長と 一向宗 石山本願寺との対決

​ 亀4年(1573年)は7月28日に改元され、天正元年となった。この年、信長は将軍義昭を追放、8月に越前一乗谷に朝倉義景を、9月には井長政を小谷城に攻め滅ぼし、近江と越前を手中に収めた。だが、翌 天正2年には早くも越前を一向一によって失う。

しかし、動する将軍義昭、強敵武田・上杉軍の影、頑強な一向宗などの包囲網に苦悶する信長は、越前に拘泥する余裕は無かった。ただ、信長にとってまだしも幸いなのは、越前は天正 3 年頃から、内部分裂をおこし自壊しつつあるし、包囲網が必ずしも一枚岩でなかったことだ。

こんな中、武田氏との正面激突に勝利する。長篠設楽原において、進攻してきた武田勝頼の騎馬軍団 1万5千を、徳川家康

現在の大阪城、エレベーターが設置された。

現在の大阪城 図1

との連合軍3万8千、鉄砲3千挺で壊滅的打撃を与えた。鉄砲3千挺というのは疑問視されているが、この時信長は、雨に弱い火縄銃の能力を十全に引き出す為、梅雨の晴れ間を待って、新暦6月末まで戦闘を引き延ばしたと言う。この大捷で一息ついた信長は、翌 天正4年、工事 真っ最中の安土城に移った。安土は京に近く琵琶湖の水運も利用でき、越前・加賀の一向一ににらみを利かせ、播磨から中国への備えにもなる交通戦略の要衝である。

それまで表向きは友好的であった毛利氏との衝突はここに始まる。信長の膨張拡大に不安を抱いた毛利氏は石山本願寺の救援に乗り出した。石山本願寺とは現在の大阪城辺にあった一向宗の寺院で、戦国時代最強の城郭でもあった。一向宗と信長の戦いは久しいもので、越前でも然り、伊勢長島でも然り(天正2年9月全滅)、本拠、大坂石山本願寺とはすでに元亀元年(1570年)に本格戦闘をしている。

当時は井、朝倉との応対に多忙を極めたため、優勢の内に和睦、以来信長軍は包囲態勢を、石山本願寺は籠城の態勢をとっている。本願寺は生き残りをかけて、毛利輝元は信長の中国への侵攻を阻止するために瀬戸内の水軍を糾合して、石山本願寺救援に乗り出した。

 

  第1次木津川口の戦い 焙火矢

 石山本願寺「顕如」は毛利と毛利に身を寄せていた流浪将軍 足利義昭に与して三度(みたび)挙兵した。信長はいよいよ包囲網を強化、補給を遮断する。

天正4年7月13日(1576年8月7日) 石山本願寺に兵糧の搬入を目的とした毛利村上水軍を中心とした軍船、輸送船800艘が本願寺に通ずる水路、木津川河口に進撃してきた。陸上はすでに包囲が完了して輸送路は海路しかなく、また海戦は毛利の得意とするところでもある。迎撃するの信長軍は、九鬼嘉隆率いる軍船300艘であったが、毛利軍は、焙火矢を撃ちかけ、軍船は炎上、九鬼水軍は壊滅的な敗戦を喫する。精強を誇る瀬戸内水軍連合に、数で劣り、武器で劣れば敗戦は必至であった。毛利軍は予定通り武器兵糧を運び入れて任務は完了した。

しかし、これは毛利本願寺連合の戦術的な勝利にしか過ぎず、本願寺の包囲が解かれたわけでもなく、毛利が攻勢に転じた訳でもなかった。こう考えると九鬼軍 壊滅的敗戦と言うのも疑問で単に文学的表現であったかも知れない。

この方面の戦闘はその後も一進一退を続けるが、天正 5年(1577年)3月に雑賀党の鈴木孫一が降伏、予ねて本願寺に協力していた紀州雑賀党と、一旦の休戦状態に持ち込むことで新たな展開を迎える。石山本願寺の監視にしか過ぎなかった包囲が、本格的な包囲の態勢が整うことになった。

 

  第2次木津川口の戦い 信長の鉄甲船

 同年10月、秀吉が姫路に入城し11月には上月城を攻略すると、当初、四面に敵を受け、包囲網の中心にあった信長は、遂に毛利、石山本願寺連合を包囲する立場になった。この態勢の中、ますます攻囲軍を強化、石山本願寺は糧道を断たれ窮地におちいる。ついに天正 6年11月6日1578年12月4日)毛利軍は再度600余艘をもって瀬戸内海を東進、大阪湾に侵入してきた。

織田軍は前回の第1次木津川口戦とは違い、驚異的な戦艦で撃する。

2 年前の木津川口の戦いで、毛利、村上水軍の焙火矢にしてやられた信長は、九鬼嘉隆に命じ、

火炎にびくともしない鉄装甲の船を造らせ、ここ木津川表に回航させていたのである。嘉隆の本拠、伊勢でつくられた大船6隻は、回航の途次、淡輪で襲撃を受けるが、鉄の装甲は敵襲にびくともせず、

装備する大砲、鉄砲で難なく撃退し、堂々と堺に

入港した。

   万幕、幟で飾り立てた大船と、多数の船団に堺中が湧きかえったと伝える。喜んだ信長はわざわざ検分に出かけ九鬼嘉隆に褒美を与えた。

大船はこの6隻のほかに、滝川一益に造らせた1隻

信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸を建造した九鬼嘉隆像、鳥羽市歴史文化ガイドセンター蔵

​ 九鬼嘉隆像(部分) 図2

   鳥羽市歴史文化ガイドセンター蔵

も交え7隻であったというが、このほうは鉄の装甲はされてはいなかった様子である。

この大船には外人もびっくりで、当時、滞在中のポルトガル人宣教師パードレー・ オルガンチーが本国に送った書翰に「信長の船 7 艘、堺に見物したが、日本国中、最も大きく、華麗で本国の船に匹敵する。と褒めあげ、大砲3門他の装備の優秀なことに全く驚いている。またこれで「石山本願寺の包囲は完成、早晩、滅亡する。」と予言している。もっともオルガンチーは宗教上の対抗心から発する言であろうが。

    いよいよ宿命の天正 6年 11月 6日朝を迎える。会戦は九鬼嘉隆の包囲陣に毛利水軍 600余が仕掛けた。記録では「始めのうちは毛利軍優勢のうちに推移したかに見えたが、鉄装甲の船には鉄砲も砲も歯が立たず、焙や火矢に燃えることもなく、そのうち 6隻の大船の大砲が威力を発揮、敵船を間近に寄せおいて、旗艦を打ち崩したから、敵船は恐れをなしてそれ以上寄せてこなかった。その上数百艘を木津浦へ追いこんだので、見物の人々は九鬼右馬允の大手柄だと感心しないものはなかった。」と言う。

   以後、瀬戸内東部域の制海権は信長に帰し。毛利の石山本願寺の救援補給は途絶え、2年後の天正8 年(1580年)閏 3月、顕如は大坂を開城、放たれた火は三日三晩燃え続けたと伝わる。

おそらく信長がもう少し長命であったならば、「坊主が籠ってさえ難攻不落」のこの地に大城郭を構え、中国経略の根拠地にしたであろうが、2年後本能寺にれる。「人生、わずか49年。」であった。遺志は豊臣秀吉に継がれ、後年ここに大 大坂城が築かれることになる。

それはさておき、この石山攻めに活躍した信長の鉄甲船とはいかなる船であったのであろうか。なかなかに、興趣のつきないものがある。

  琵  琶  湖  の  大  船

 もと信長は、これに先立つ井攻めに琵琶湖に大船を浮かべた。

『信長公記』によると「(元亀四年)五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・山田山中の材木をとらせ、佐和山麓松原へ勢利川通り引下し、国中鍛冶・番匠・を召寄せ、御大工岡部又右衛門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、櫓を百挺立てさせ、艫舳に矢蔵を上げ、丈夫に致すべきの旨仰聞かせられ、在佐和山なされ、油断なく夜を日に継仕候間、程無く、七月五日出来訖。」この記述から、佐和山に陣を構えた信長は、長さ約54m、幅13m櫓、100挺立て大型船を作らせたことが

わかる。後、信長は何度かこの船の出動を命じたが、自

身はあまり乗らず、やがて解体され、小船に作り直され

たと言う。大き過ぎる船体はあまり機能的でなかったの

であろう。さてこの琵琶湖の大船には復元図がある。

その1は、滋賀県文化財保護協会によってまとめられた

想像図、図 3で、長さ約54m、幅約13mで、大船に過ぎ

鈍足で、実用の船でなく、威圧的モニュメントであった

と言う。総矢倉は2層、舳艫に天守閣様の矢倉を設え、

弥帆柱を持ち、櫓は片舷 50挺 総 100挺を備える。『信長

公記』の記述そのままに、まず尋常な安宅船の形式である

その2は、安土城考古博物館と長浜城歴史博物館によっ

てまとめられた復元船でスケッチ 図 4に示す。『信長公

記』に「長さ三〇間(約五四m)、幅七間(約一三m)

櫓百挺、前と後に櫓(やぐら)を設ける。」と記される巨

大船を、後に安土城を築くことになる大工棟梁、岡部又

右衛門がわずか40日 ほどで建造したこと、琵琶湖の環境

信長の鉄甲船の復元模型、木津川口の戦いに勝利​ 琵琶湖の​信長の大船ほぼ、尋常な安宅船形式『琵琶湖の港と船』滋賀県文化財保護協会編

 ​信長の大船(想像図)図3

『琵琶湖の港と船』シリーズ近江の文化財003 

 (公財)滋賀県文化座保護協会発行 より転載

信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸木津川口の戦いに勝利す。琵琶湖の大船図 『ドキュメント信長の合戦』の著者、藤井尚夫氏は「器状の船体を浮力で浮かべる船ではなく、材木の浮力をそのままに活用する筏構造の船だった。」と解釈したほうが妥当ではないかとされる。  けだし卓見であろう。

​ ​信長の大船復元模型スケッチ 図4
実物は
安土城考古博物館​蔵  

から船は1m以内の喫水であることに着眼、「直線的で平底で、薄い箱の上を、楯で囲った四角い物体に、櫓(やぐら)が二つ乗っかったような船」「部材を規格ユニット化することによって組み立てることのできる構造。」としイメージされたものである。「だから当時の代表的な大型軍船「安宅船」とは全く異なる船の姿が浮かび上がってくる。」信長はこれを、「・旗差し物・幕で飾り立てられたことであろう。」とされた。『琵琶湖の船が結ぶ絆』

 これはかなり無理な解釈といえる。工期が短いこと、造船の技術を持っていない大工棟梁が造ったことに着目されているが、模型を見る限りは、船とは言い難い。 

復元船の船体深さは2mあまりで、全長54mに比べ20分の1以下である、縦強度に配慮された形跡 

    がない。琵琶湖は沖に出るとすぐわかるが、湖といえども独特のうねりがあり、加えて淡水は浮 

    力を生まない、だから、琵琶湖の固有船「丸子船」は、波乗りに、強度にと、独特の工夫がなさ

    れている。総矢倉はそれこそ「楯で囲った四角い物体」が乗っているに過 ぎず、曲げ、ねじれ、

    の力がかかれば、分解してしまう。

舵に比べ、舵柄が極端に短く操船は不可能。また、漕ぎ手は厳重に矢倉 楯板に守られている 

     が、操舵手だけが波にも、飛び来る矢玉にも曝露状態だ、

『ドキュメント信長の合戦』の著者、藤井尚夫氏は「器状の船体を浮力で浮かべる船ではなく、材木の浮力をそのままに活用する筏構造の船だった。」と解釈したほうが妥当ではないかとされる。

けだし卓見であろう。

  ところで、操舵手の位置であるが、江戸期の弁才船は矢倉の上である。操舵の便からは四方が見はらせて良いと思われるが、こと軍船に関しては、矢倉内に配置される例が多い。果たしてこれで操船が出来るものか、また、船頭、指揮者の号令が徹底できるものか、疑問も残る。もっとも敵の矢玉に対しては曝露された屋上甲板より、矢倉内のほうがよいのは言うまでも無い。さてこの琵琶湖の大船もやがて、井、朝倉連合を破り、忘れ去られた巨船であった。

 しかし大船の強みも弱みも熟知していた信長は、この第2次木津川口の戦いに再度大船を投入し

た。それも楯板に鉄板で装甲した大安宅船 6 隻である。      

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